いつか見よう

具体的にはブレイキングバッドを完走してから手を出そうと思っていたアメコミのドラマ化シリーズ。テレビ放送するということで、予定を繰り上げて『ARROW/アロー』を二話まで視聴。
実写化がうんたんというよりも、アニメよりも長く映画よりも短い(そして、シリーズ単位で見ると最長の)尺を「ヒーローものとして」どう捌くか気になっていたんだけど、どうやらサスペンス要素を軸にしていくことにしたようで。

「社会の腐敗登場→アローが脅す→無視・軽視される→アローが本気出す」というパターンはいい。ヒーロー物だしね。見せ場を増やすためにも沢山戦って然るべきだ。主人公に敵の弾が当たらないのも、隠密に事を済ませる気がないのなら弓じゃなくてもいいんじゃねって疑問も、敵が初回の襲撃から何も学んでいない点に関してもツッコミを入れる性質じゃない。お約束ってやつだろう。それがハッキング用のデバイスだと気付けないのは仕方ないにしても、自分のオフィスに撃ち込まれた矢を放置しておくなよとは思ったけど。
ただ、出てくる敵が(まだ二話分だけだけど)漏れなく物語が始まる前に悪さをしていて本編はその後日談になっているのはどうなんだろう。あれがあった、これがあったという伝聞と回想が大半でアローが駆除しようとしている「街の汚れ」が現状あまり深刻に見えない。
とはいえ、まだ二話。風呂敷を拡げたばかりなので今後に期待。

御当番

ヒーロー物のドラマの中でも好きだったのが『ドクターハウスDr.House』シリーズ。
主人公は医者なんだけど、あれは医者物じゃない。ヒーロー物だ。
シリーズの主体となる話を展開していくのに平行して、その回を象徴する課題に取り組む。特撮やロボット物だと「怪獣」がそれに当たるわけだけど、医者だとそれが患者の抱えた「病気」になる。敵の脅威が視聴者に披露されて、主人公が対抗策を導き出し、打ち倒す。ヒーロー物がヒーロー物たる所以はアクションシーンではなく、その構図だと思う。
脅威をどうにかしたい。視聴者の中で高まっていくその想いが、登場人物の手によって解消される。手を出すことのできない自分の代わりに願いを果たした主人公は、視聴者にとっての代弁者であり、理解者だ。だからこそ英雄視される。強いだけなら、賢いだけなら、悪役の中にも脇役の中にもいる。例え、その力や頭脳が主人公を凌ぐものだったとしても主人公になれないのは、彼らが視聴者の代弁者や理解者ではないからだ。
大人向けとしてのシリーズだから、主体となるサスペンス的展開を象徴したいのかも知れない。だけど、ぼくが見たいのはヒーローなんだ。だからもっとその回を象徴する課題に集中してほしいなと思ったり。

孤高の狼

元ネタがいたということで、他人の人生についてとやかく言いたくないぼくだから、筋について語ることはしないけど、ちょっとした所感を。

かなり、とても、入念に、多方面への気遣いをしている映画だなというのが率直な感想。反戦を前提に、現場に立つ人にもその家族にも、(主人公から見た)敵の描き方ににも、在るべき配慮がちゃんとある。
プライベート・ライアンのような凄惨さや、ハート・ロッカーのような緊張感があるわけではない。だけど、それでいい。
だって、伝記だもん。
味方からは英雄と呼ばれ、敵からは悪魔と恐れられた男。その正体は何者だったのか。今作の意義はその追求にある。英雄でも悪魔でもましてや軍人でもない。クリス・カイルという個人を描くためには彼の経験を劇的に表現してはならない。戦果こそ伝説的であったけれども、戦場の中で彼は他の者と同じように苦しみ、危機に瀕してきた。だから、彼の痛みは兵士が抱える普遍的な痛みとして、美化せずに映してこそ、彼の痛みとして伝わる。母子を撃たなければならない状況も、周囲の音に気を尖らせる日々も、英雄になったが故の特別な苦痛なんかじゃないんだ。
戦場にある現実なんだと受け止めなければならない。

余談

伝記だっつーのに、ファシズムだの歴史修正主義だのって話題をこの映画に持ち込む連中は何がしたいんだ。クリント・イーストウッド監督はクリス・カイルを撮るに当たって、戦果を誇張しなかった。彼が残した差別的な発言だって隠さずフィルムに収めた。彼の最期の瞬間だって映さなかった。「英雄/悪魔」が個人の枠を越えて美化されることのないよう、劇的な要素を徹底的に排除しようという配慮があった。クリス・カイルが見て、感じたものをその通りに描き、更に、エンターテイメントとして成立させるための演出や脚色だって、エンドロールにアレを挿し込むことで精算しようともした。
これだけして、「一個人の体験談」であることを示しているのに、外野が勝手にイデオロギーを着せちゃいかんと思うのですが。

チャッピー

の予告映像が本編前に流れて、HE-MANが大画面に。唐突に映すの止めてくれ。笑いが止まらなくなるから。

エイリアン

新作のメガホンをニール・ブロムカンプが取るという記事を見て、そういえば「チャッピー」の国内上映は何時からかしらんと、公式サイトに飛ぶ。で、そこに載せられていたトレイラー見たら一瞬だけHE-MANが映っていて今笑い転げてる。

公開、楽しみです。

新作といえば

アンドリュー・ニコルの次作「グッド・キル」のトレイラーも(随分前に)公開されたらしい。技術革新がもたらす人間生活への圧力に警鐘を鳴らすような作品……と見せかけて、世間の潮流に流されずひたむきに努力を続け夢を勝ち取る小市民への讃歌を謳い続けた(ガタカとか、トゥルーマン・ショーとか、TIME/タイムとかは、そういうものだとぼくは思っています)アンドリュー。今作の題材はドローンを用いた戦争なんだとか。

機械に徹する兵士を生き方をどう描くのか、こっちも楽しみ。

先送り

年度末が締切のサムシングが多くて中々予定の調整が難しい近頃。
加えて、誕生日が年度末近辺だから、レンタルビデオ店の会員カードだの運転免許だのの更新手続きもまとめてやって来る。
おまけに、E-5のゲージ後一目盛り分まで追い詰めて資源枯渇。

友人の誘いに便乗して酒に逃避。

インターステラー

かつての人は空を見上げていた。だけど今じゃ、下を向いて砂の心配ばかりしている。
夢を追いかける余裕がないほど追い詰められてしまった人々。荒廃する大地。薄くなりつつある大気。終わりを間近に迎える世界で尚、好奇心を忘れない少女と父親の探究は、小さな子供部屋から始まった。

「お前は生まれるのが四十年遅かった。……いや、早過ぎた」

再び宇宙を目指す機会を得て湧く息子にそう告げる父。現実に生きろとクーパーを引き留める。父の言う通り、子供たちが育つ土台として在ることも親の務めだ。しかし、砂漠化に歯止めがかかる目途は立たず。このままの生活を続けていては飢餓と窒息が待つのみ。自分の子供たちが人類最後の世代になるかも知れない。クーパーが見ているのは目の前の大地ではなく、先にある未来だった。

人類存続のため地球を飛び出したクーパー一行。受信したシグナルを頼りに第二の故郷を探すものの、不慮の事故により二十数年の歳月を無駄にしてしまう。後悔と焦燥に駆られたクーパーたちは先に飛び立ったマン博士の権威と功績に縋り、彼のシグナルを追う。
期待通り、マン博士は移住に適した星を見つけていた。冬眠していた博士と合流したクーパーたちは早速、移住の準備に取り掛かる。
その最中に届いた成長した一通のメッセージ。送り主は成長したマーフだった。

「あなたは知っていたのね。地球に残された人は助からない。みんな、餓えて窒息する。……お父さんはわたしを見捨てたの?」

時は人を変える。環境は人を変える。人は人を変える。
つまり、生きるということは変わるということだ。時と共に成長し、環境に変質させられ、人と関わることで自身を変革させる。絶え間ない変化は進化を越える速度で変動する環境に適応するためにあった。気温に抵抗して体温を保ち、自然災害の影響から逃れ、外敵の襲撃を避け、食料を確保する……etc。手段を後天的に身に付ける。学習するとも言い換えられる。経験するとも。
変化は生存要件。だけど、ぼくたちは時に振り返る。自分たちが歩いてきた道のりを。今より良かった時代を思い出して自分を慰めることもある。更に先へと進むために原点を見つめることもある。
人類の危機だとか星の寿命だとかを無視してみると、実はクーパーが無為にした二十数年という歳月は、親子の間に生じた軋轢としては常識的な期間だ。もちろん、現実世界での換算ではなく、ホームドラマのテーマとしての話だ。
顔を合せなかった期間。子供は親の知らないところで思春期を経験し、同じ年を重ねて親の立場を知り、親と同じ問題に直面した。そんな子供に、親は何をどう伝えればいいのか。残してやれたものは多くない。未だ答えを見つけ出せないでいる自分が子を正しい道へ導けるのだろう。
親子のすれ違いを乗り越えて再会するにはどうすればいいのか。
別れた場所に帰ってくればいい。と、この映画は言っている。

はたして、ぼくたちはどこに根差しているのか。

どんな風に変わろうとも、根源は変わらない。根源とは変わり続ける不安定なぼくらを繋ぎとめてくれる。変わらないまま在り続ける部分が、自分は何者であるかを教えてくれる。故郷に帰ると安心するし、学び舎が無くなると切ない。変わり続けるからこそ、変わらないものに意義が生まれる。

クーパーの父と息子は生まれた場所に根差していた。自分の世界の姿を受け入れて、そこで生きる決意をした男たち。その根は深く現実と結び付き揺るぎない。
だけど、生まれた場所が自分の生きる場所じゃないと気付いた人たちはどうすればいいのか。
クーパーの世界は空だった。いつか来る未知との遭遇を夢見た子供部屋。そこで育った夢が、クーパーを羽ばたかせた。
現実を生きる祖父や兄と夢の世界に飛び出した父の狭間にいたマーフは、一つの家を根として全く別の方を目指していく人生を目の当たりにした。そして、気付いた。どこで生きようとも、どこまで旅をしようとも出発点は不動なのだと。どんな風に変わろうとも、根源は変わらない。根源は変わり続ける不安定な自分たちを繋ぎとめてくれている。変わらないまま在り続ける過去の自分が、自分は本来何者であるかを教えてくれる。不確かな明日に向かって生きる人たちに芯を与えてその背を支えているのだと。
だから、息子は父から受け継いだ大地を守り続けて、娘は父と夢を語った子供部屋に答えを求め、そして父は娘たちの下に帰還した。

宇宙、時間、宗教

スペーストラベルものの皮を被ったファミリードラマと思いきや、その正体はタイムトラベルものだった。更に突き詰めると〈ラザロ計画〉という露骨な名前が示す通り、キリストものだったりするんだけども。人類の救済のために大波と対峙したり(モーゼのように人を人を新天地へ導くことは叶わなかったけれども)、ラザロを甦らせて娘に神託を届けたクーパーの姿は正に、ね。ちなみに、冬眠していたマン博士の目を覚まさせるという件もそう。ラザロの復活は人類全体の罪をキリストが救済し生に立ち返らせることの予兆として解釈されているんだとか。
……と、これ以上深く聖書について語ろうとすると、イノセンスハンニバルなんかの引用句やらから興味を持ってかじってみた程度の知識しかないのがバレるから、話を逸らす。
どうして親子の話を語る舞台が宇宙もの(延いては、時間もの)になったのか。
親子が顔を合わせられなくなってしまう事情は時代によって異なる。徴兵で戦地に行った子。離婚の結果、相手方に引き取られた子。放蕩、非行。様々ある事情。しかし、昨今ではそれらが使えない事情がでてきた。テクノロジーだ。恋愛もののドラマで待ち合わせに失敗する件が消滅したのと事情は近い。乗り物が距離的な隔たりを、通信技術が精神的な隔たりを解消してしまったため、すれ違いが起こり難い。
本作においての「時間」の扱いは、人類滅亡までうんたんみたいなサスペンス的スパイスではない。距離よりも二者を遠ざける「障害」だ。時差という越えられない壁が二人を別つのだ。そして、クーパーとマーフはその壁を過去と未来の双方から力を合わせて打破する。だから、主題はスペーストラベルではなく、タイムトラベルなのだ。
社会発展や技術革新の讃歌を象徴した大宇宙への旅立ちが主題にあった『2001年宇宙の旅』。人間社会や技術革新が行き着いたところから家族愛や個人の選択へと帰結していく今作は、その復路みたいなものだとぼくには思えた。

爆発不足

のために身を挺してドカンと見せ場を作ってくれた他称「天才」マン博士。自己中心的論理で暴走しちゃう現実にいたらやっかいなキャラだけど、作中の登場人物の中で最も共感できた人物が悔しいことに彼だったりする。取り戻せないからこれまで賭けてきた時間が愛おしい。無為なものだったと思いたくないから失敗を認められない。彼の暴走は賭した時間を意義あるものにするための最期の足掻きだったと思えば、同情の余地がないでもない。
少なくとも、計画を放棄して帰ろうとしたクーパーや恋人の生死を確認するため効率を無視したアメリアが責められることじゃないと思います。二人とも暴走を思い留まらせてくれる相手が傍にいた。だから、踏み止まることができた。だけど、マン博士の周りには誰もいなかった。恐怖や喪失感を理解してくれる人も、手を差し伸べてくれる人も。
それだけの違いしかなかったんだからね。

帰路

山登りなんかが特にそうなんだけど、帰路のことを思うと目的地に着いたときの達成感というものが感じられない。目指した場所に辿り着いてもまだ来たときに通った道のり分の苦労が後に控えている。態々その苦労を背負い込むために、自分は苦労してここまでやって来たのか? って。
だけど、旅立つ意義というのは、目的地だけにあるんじゃないんだろう。道中で蓄えた体験を目的地で自分の経験へと翻訳する。帰路は経験を持ち帰る作業なんだと思えれば旅行や山登りも楽しめるのかも知れない。
と、この作品を観て思いました。

ロボット

裏切りでも企てているんじゃないかと思わせるような、無言・無表情を貫くロボ勢のカット。HALを意識させてミスリードを狙っていたのは見え見えだったけど、ノーラン作品には珍しく今作は悪意を持ったキャラが出てこないから(ファミリードラマと銘打っておいて悪人を出すのも妙だけど)、「殺れ、殺れ!」とロボ勢の暴走を実は内心で期待した。

3年

記憶違いならそれでいいんだけど、船に積まれた物資は冷凍睡眠していない状態で三年くらい。四人でそれくらいなのだから、一人で活動すれば十二年は持つ。だけど、ロミリーが寝ずにクーパーの帰還を待っていたのは二十数年。
霞でも食って生きてたのかな?

配置転換

衝動に駆られてこんな時間に書籍やら映画のパンフやらゲームソフトやらの置場を変更。本棚にもう余裕がないから適当な台の上にブックスタンドで背の高い本を並べておこうと思ったんだけど、百円ショップのは駄目ね。強度と重さが足りず並べている最中に本の重みで位置がずれるわ拉げるわでもう散々。ゲームソフトを別の場所に移してできたスペースに突っ込んで一先ず片付いたけど、さて思った通りそれぞれが手に取りやすくなっているか……。

タイムトライアル

所要時間1:30
映画一本観れたぞ。

蜘蛛男

ディズニーがアベンジャーズ3に合流させたがっているらしいスパイダーマン。原作通りに展開していくのなら、出たら出たで割と早い内にアレしちゃいそうだけど、初代が三作目でコケてアメイジングが全体的にコケたからこれを機に再リブートを計っているなんて噂も。業界内で依然蔓延してるダークナイト病の症状……かはともかく、脚本家にクリストファー・ノーランの義妹の登用も検討されているんだとか。迷走続くスパイダーマン。どうせ流行りに便乗するつもりなら、アメリカナイズされた日本の作品が成功した波に乗って、レオパルドンを出すまでしてくれないかしらん。