どうせ実らない夢

現代版ファウストともいえる筋書きの『ゼロの未来』。人生の意義を教えてくれるはずの一本の電話。一度は取り逃してしまったけれど、高潔さを保っていれば、いつか必ず再びかかってくるに違いない。そう信じるコーエンは世俗に染まることなく、自分の職務に準じてきた。
人生の意味を求める彼に世俗の幸せを教えたのがマネージメント。マネージメントを信奉するコーエンは彼に従い、敬遠してきた世俗に触れ、友情や愛情といった世間に転がる幸福を知る。
すぐそばにあった友情や愛情と一生を犠牲にしてまで待ち続けた一本の電話。対極にある二つの幸せの間で、自分が手にすべきものはどちらなのか。コーエンは葛藤する。大義を手放して得られる人との繋がり。孤独の中にある人生の真実。
誘惑を振り払い、コーエンは高潔で在り続けた。友情も愛情も手放し、再び真実を追う道を選んだ。
しかし、彼が歩んだ先には何もなかった。自分を律し、偶然出会った幸せもかなぐり捨てたというのに、彼の一生は徒労に終わった。身一つだけが彼に残されたものだった。
どう過ごしたとしても、誰と繋がったとしても、人生の終着点にあるのは無だけ。そう悟ったコーエンは幸福と出会った場所――ペインズリーと共に過ごした仮想世界――で人生の終わりを待った。

恐怖!

個人的にはロスト・イン・スペース以来のトラウマ映画。時間の経過が事態を取り返しのつかないものにする。子供だったウィルと中年になったウィルの対面が、老化の恐怖をぼくに植え付けた。ゼロの未来に感じたのは、一つのことに執着することへの恐怖だ。「泳ぎ続ければ岸に戻るまでの距離が大きくなる」というのはガタカからの引用だけど、その通り。コーエンは真実への道を歩み続けたことで、後戻りできないほどに世俗の幸せから遠退いた。
道を進むということは、他の道を諦めるということでもある。
「やらなかった後悔」よりも、「やった後悔」の方がマシ。しかし、何かをやるということは、他のことをやらないということでもある。自分の進路に何も見つけられなかったとしたら、そこにあるのは「やった後悔」だけではない。他の選択肢を放棄した――「やらなかった後悔」も同時に襲い掛かる。人生の行き止まり。ゼロの未来はその様を容赦なく描いたように見えて、とても怖かった。
同じく近未来を描いた『未来世紀ブラジル』と比較すると、強要や束縛のような外側からの攻撃との格闘がブラジルだったのに対して、コーエンが相手にするのは自分だった。自分が思い描いた理想をただ一点見つめ続ける。持続と不動。我々と自称し、自分の世界を構成するのは自分だけとする彼は、自分を惑わす何もかもを拒んだ。自分の選択が招いた苦悩。運や他人のせいにすることができないあたり、ブラジルよりも今作の方が結末は残酷かも知れない。人生を賭けた結果が幸せの剥奪だなんてね。夢を追い続けるための対価だとしてもさ。

またおま

それにしても、最近のマット・デイモン、SFづいているなあ。
一時期、ぼくが選んだ映画にガイ・ピアースばかりが出ていた時期があったんだけど、ここ最近はマット・デイモンばかり。『火星の人』にも出るんだよね、確か。

困った

『エッセンシャル・キリング』を観て『旋風の中に馬を進めろ』を連想した。一人ないし少数が大勢に追い駆けられる筋書きの作品はこれに限らずあるけれど、真っ先に浮かんだのが『旋風の』だった。『旋風の』を特段好きというわけでもない。むしろ、観てがっかりした覚えがある。ジャック・ニコルソンは好きだし西部劇も好きなんだけど始終逃げているだけの物語に観えて、途中で飽きたのだ。
で、『旋風の』を思い起こすきっかけになった『エッセンシャル・キリング』も『旋風』同様の感想に至ったかといえば、これが違う。『エッセンシャル・キリング』には強く惹かれるものを感じた。
即座に連想したということは、筋書き以外にも何か共通項があるはず。あるはずなんだけど、具体的にできない。
元々、想起したことを文章化するのは苦手なんだけど、今回に関してはそういうことではなく、『旋風の』が好きではない自分がどうして『エッセンシャル・キリング』を気に入ったのか。その理由が解らないのだ。解らないのに、終わりまで画面にくぎ付けにされた。気に入った作品の場合、どうしてそれが気に入ったのか、大抵の場合は自分が納得する答えを用意できた。今回もどうしてそれが気に入ったのか。『エッセンシャル・キリング』のこういうところが――と挙げていくはできる。できるんだけどしかし『エッセンシャル・キリング』の気に入った要素は『旋風の』の中にもあるのだ。だから、『エッセンシャル・キリング』に惹かれたわけを語ると『旋風の』を嫌う理由が無くなってしまう。

好きじゃないものと似た作品を好きになった。
好きなものと似た作品が嫌い。

観た時期や歳が違うから感じ方が変わったのだろうと方を付けようとしたところ、『旋風の』を観直しても感想は大きく変わらず。
演出の違いに落としどころを見つけるにしてもなあ。設定や状況、公開時期も大きく違うからそこに好き嫌いの差があるとも思えないんだよなあ。
自分の感性のことなのに、解らない。うーん、困った。

バードマン

バットマン役というマイケル・キートンの経歴と配役の設定ばかりが取り上げられている感のある『バードマン』
だけどあまりその辺に執着し過ぎると「俳優に限らず誰もが感じる苦悩を表現した」という監督の趣旨から逸れてしまうんじゃないだろうか。
リーガンが演じたバードマン。かつて彼が演じたヒーローは既に虚栄の塊に成り果てているのだから。

街を歩けば声をかけられる。写真を撮られる。過去の栄光を賞賛する。リーガンを囲む彼らが求めているのは、バードマン。バードマンを演じたリーガン自身ではない。だから、彼がやろうとしていることには関心を向けない。彼らが見たいのは血を撒き散らしながら戦う姿。虚像が演じた虚構なのだ。
バードマンを通して浴びた脚光をスーツ越しにではなく、今度は自分自身の肌で感じたい。見せかけの賞賛ではなく、実感が欲しい。実体による現実を手に入れるため、リーガンは舞台に立った。

他人に求められた姿(バードマン)ではない、自分の理想とする真の姿。その真の姿に近付くため、自分に足りない要素を獲得する。肉体を求めたアンドリューや、不完全な生活を求めたジャックのように、彼もまた、自分の理想像が持つ人間性を求めた。その最たるものがリーガンにとっては愛であり、役者である彼にとって愛とは観客からの賞賛だった。
自分の理想像と対峙するとき、人は孤独になる。胸の内に思い描いた姿は他人の眼に見えないし、苦痛を他人が実感する術はない。鬱憤を発散している間、理想像(バードマン)と対話している間、リーガンは常に独り。孤独が彼を更に追い詰めていった。
とはいえ、内なる自分の姿から目を背ければ救われるかと言えばそうでもない。視線を逸らした先には現実があって、矮小な自分がいる。名優と名高いマイクや映画人を見下す批評家、育て方を間違えた娘、自分を見限った元妻。他人は自分の矮小さを誇張する。外の世界に嫌気が差して内なる世界に戻ろうと振り返れば、今度は身の丈の小さい自分を自分が嘲笑っていて、嗤われた自分が自分に憤る。
孤独が生んだ鬱憤を晴らすため、リーガンは超能力を駆使して暴力の限りを尽くし、生活から逃れるために宙を舞う。理想と現実の格差に悩まされる自分を慰める手段が超能力だった。
しかし、どれだけ破壊し、高く跳ぼうとも、行き着くのは現実。孤独は絶えず彼に付き纏う。
やはり、愛されなければ。
「バードマン/虚像」ではなく、「リーガン/実像」が享受するべき真実の愛を。
彼は観客から真実の愛を手に入れるために、一世一代の賭けに出た。


オチが釈然としないという人向け。

「愛だったのよ」とテリは言った。「それは世間一般の目から見れば確かにアブノーマルかもしれない。でも彼はそのために進んで死のうとした。そして実際に死んだのよ」

レイモンド・カーヴァー 訳:村上春樹(2006)『愛について語るときに我々の語ること』(中央公論新社

舞台の上で引鉄を引いたのは、自分の愛を観客に伝えるためだった。
ツイッターフェイスブックもやらない父さんは世間から忘れられている」
虚像に人気を奪われた経験から実体の伴わない付き合いに否定的だったリーガンは、娘にそう説かれたことで自分が他人から愛されることに一辺倒だったことに気付かされる。
要求するだけでは愛されない。自らが愛を示すことで、他人の愛情を惹き付けることができる。
「お前は大スターだ。やつらの退屈な人生を変えろ。驚かせ、笑わせ、チビらせろ。お前がやることは……まさにそれだよ。骨まで震わせる大音響とスピード! やつらを見ろ。眼が輝いてるぞ。みんなが大好きなのは血とアクション。喋りまくる重苦しい芝居じゃない」
自分の愛を伝えるためにリーガンは観客の前で死んで見せようとした。そして賞賛を浴び、実際に死んだ。世間一般の目からすればアブノーマルかもしれないけれど、彼は彼なりのやり方で愛を示したのだ。

これまた話題になったロングカット

「いいね!」を押してもらうために躍起になって実態のない繋がりを求める人たちを揶揄する一方で、彼らを見下すリーガンも、実は彼らと本質は変わらないと語るこの映画。
つまるところ、リーガンの立ち位置は観客と同列で、彼自身の願望が成就したのか(彼自身は結果に満足できたのか)はあまり重要ではない。
それを証明するのが、全編通してほぼ切れ間なく続くロングカットだ。
主人公が役者であることを踏まえれば、この映画は焦点を合わせるべき場面をぼかし、立ち止まるべきところを素通りしているように見える。控室から舞台裏に向うまでの道のりや、劇場とバーの位置関係なんかは「本来なら」不要だし、リーガンが観客に示した愛も始終皆が気にしていた舞台の評価も、新聞の紙面にちょろっと載っているだけ。無駄なシーンが増えるくらいであれば、態々リーガン(を含む舞台裏の人たち)の背中をカメラが追い続ける必要はないし、舞台を軽視するのであれば何も劇場を題材にすることはなかった。だけど主人公の設定をもっと抽象的に、例えば単に「孤独な人間」とすれば描写に過不足はない。
孤独というのは人生を脚色するために用意されたものではなく、日常のあるときに突然やってくるものだ。人混みの中で不意に目的を共有する相手がいないことに気付いたり、ドアを閉めて外界から隔絶された部屋にいると感じるギャップ。それが孤独だ。
比べるものがあって初めて差異は生じる。だから、孤独はそれ単体では成立しない。一が全なら欠けているところはないんだから満たされているよね。というのはちょっと横暴な弁だけど、満たされる感覚を知らなければ諸手が空でも不満を感じられないのは確かだろう。
そして、過程も欠かせない。失って気付くというのはその通り。ただここで言いたいのは失くしたものの大切さではなく、失う過程を知ることで喪失感に気付くということだ。有無を比べるのは事実確認に過ぎず、在ったものを失わなければ実感は得られない。喪失感を伴うことで無くすことは孤独に繋がる。だから孤独はそれが一シーンの間だけの出来事だったとしても、日常の連続の中にいなければ存在できない。日常の中にある孤独を過程も漏らさずに映像化するための手段があのロングカットなのだ。楽屋で一人周囲の無理解を嘆く姿も、段取り通りに進まない稽古が終わって、無理解な共演者と別れる過程があるから孤独に見える。

ロングカットのもう一つの意味

沢山の人が行き交うニューヨークの歩道とドア一枚隔てられた劇場内。舞台上で披露された演目が(監督、脚本、主演を務める)リーガンの集大成であるならば、楽屋裏で起こったいざこざは、そのままリーガンの頭の中で起こった葛藤の暗示になっている。リーガンの欲求を体現する自分自身と、舞台役者として映画人である彼を肯定したり対立したりするマイク。父という役割を果たせない自分を否定する娘。理想を追求する自分を律して現実的な課題を突き付けてくるプロデューサ。バードマンが内的な対話相手であるように、彼らは外的な問題を象徴している。劇場の中での出来事全部がリーガンの脳内活動そのものなのだ。
身体の外にある問題と内的な葛藤が間髪を容れずに押し寄せてくる。だから、カメラは(ほとんど)ずっと回り続けている。

流出したという例のアレ。

 不確定な情報に反応するのは良くないんだろうというのを、まずは念頭に。
 これこれこういうものを世間に届けたい。そのために儲けを出す仕組みを考えよう。そういう想いから興しただろう会社が、投資家だとか経営者に支配されて儲けるためだけの商品を生産するようになってしまったというのは、見ていて悲しいなあ。
「 技は心。思いやりのない奴の仕事は感動しない」
 何時だったか(多分去年の夏頃)、深夜番組でクリーニング店の店長が語っていた言葉を思い出した。
 そりゃあ、会社は儲けを出すための組織だけど、儲けを出すだけが会社の仕事じゃない。だけど、何のために儲けるか。エンタメに限らないだろう。市場を独占している企業でもない限り、同じ事をしようとしている競争相手がいる。店主の言った思いやりこそが、その競争相手たちに一歩差を付ける要因じゃないのか。
 儲けを出したいだけなら、他人が掲げた理念を奪わずに他所でやればいいのに。理念を捨てて流行りに乗っかるようじゃあ、先人が築き上げたブランドを食い潰しているだけのようにしか見えないんだよなあ。

後11分

俺氏、後11分で日付が変わるというところで応募締切に間に合わないことを悟り、新人賞への投稿を断念する。(今年二度目)
残り三ページくらいと見込んでたんですけどねえ。

まあ、素人が推敲もせずに締切ぎりぎりに出したものが好評もらえるとも思えないし、原稿の精度上げて秋に出しますか。
「月一本仕上げれば、上半期だけで四か所に投稿できんじゃん!」とかアホみたいな計画を立てていた昨年末の自分を呪いたい。


ということで、早速艦これポチー。

筋肉痛

友人の引越しの手伝いで運動不足を痛感したので、肉体改造計画を立てる。
早速、部屋にこもって何かいい手はないかと調べたらこんな記事が。

gqjapan.jp

一日八食? 食うのは得意だ。おれに任せろーと実践したらピザ街道突き進んで悪夢を見そう。
楽して鍛えられる方法ってないかしらん(女子力)