どうして怪獣は吼えるのか

マグロ食ってるようなのをなかったことにして、再発進した米版「一作目」
どこぞの評は、今作に対して初代ゴジラに込められた反核の思いが軽んじられていると大層ご立腹らしい。
そうだろうか。
被爆国の言葉を尊重してくれての評だから、それに真向から対立するのは気が引けるんだけど、今作は今作なりに核の恐怖を象徴するゴジラ、自然の驚異を体現するゴジラと向き合っているんじゃないかとぼくは思う。

つまるところ、ゴジラは怪獣映画だ。
だから主役は怪獣であり(本作は……まあ、うん)、主張も怪獣であるべき(大事なところは渡辺謙が言葉にしちゃったけど)だろう。
なので、一先ず今作に登場する怪獣たちに主眼をおいてみる。

ムートー ♂

小さくて羽の生えた方。
放射線を取り込んで成長する巨大生物。
付近の採掘場の崩落とともに目覚め、食料を求めてフィリピンから日本へ。原子力発電所を破壊。そこで働いていたフォードの母が巻き添えになる。
原子力発電所から漏れた放射線を喰らい、成長したムートーは蛹になり、研究機関モナークの管理下で黙々と羽化のときを待つ。

放射線を糧に暴力を振り撒くさまは正に核の脅威そのものというのは安直だから脇に置いておくことにして。こいつの真価は、将来の脅威になりうることを予感させる存在でありながらも、放射能の拡散を防ぐため、人に生かされていたその境遇。そして、予測可能な脅威は管理できるはずだという人の自惚れを打ち砕いたところにある。
未来を犠牲に今を取り繕う。ムートーという怪獣は、そんな人の生き方を風刺し、警告するために生まれたんじゃないか。
その気は雌の設定にも見受けられる。

ムートー ♀

でかい方。
雄と共にフィリピンの採掘場地下に卵の状態であったが、こちらは崩壊の影響を受けず、卵のまま人に発見される。高濃度の放射能をまとっていたため、卵は米国の放射性廃棄物処理場に遺棄された。廃棄物から放射線を吸収し、孵化。産卵のため、成長した彼女は雄との合流を企てる。

雄に倣って勝手な解釈をすると、でかくて無数の脅威を産み落とす雌は飽和し続ける放射性廃棄物と同様であり、将来に掛ける負債の象徴だ。
人が放置してきた「脅威」と「負債」は進路上にある人の営みを踏み荒し、そして遂にサンフランシスコで巡り合った二人は交わった。

ゴジラ

背中が見えたり、足が見えたり。そしてやっと全貌を拝むことができて、その咆哮に館内が歓喜した直後。画面が中継映像に切り変わっちゃう。というそんな登場。大波をまとい風を起こし、大地を揺らす。人なんてお構いなしに「脅威」と「負債」を薙ぎ倒す。

そう。
今作ではゴジラが人に代わって、人が生み出した核の「脅威」と「負債」を清算する。
清算。そのことだけを見れば、対比すべきは「対ヘドラ」なのかも知れない。だけど、冷戦下に作られた初代ゴジラ核兵器の語ったように、ムートーは「今の放射能問題」を語っている。冒頭で述べた「怪獣映画はーー」に還って、比べるべきは初代ゴジラなのだ。
人が生み出し、人に牙を向け、人によって始末された初代との相違点。初代では「こうなってしまう前に人の歩みを正したい」という想いが、核への恐怖や憎しみと共に語られた。そして、人には「最悪の事態を回避する良心が、打開する力がある」という期待があったからこそ、自然の枠組みからはみ出した怪物は人の手により自然へと回帰する、という結末になった。
対して今作の人間は無力だ。戦闘機はパルスの一撃で墜ち、銃撃はムートーの外殻に掠り傷一つ負わせられない。切り札である核ミサイルも、求愛の儀式に使われる始末だ。術を失った人はムートーと敵対するゴジラが調和をもたらしてくれることを期待して、彼らの戦いを見守る。
この無力感は諦観にも似ている。ヒロシマナガサキを見ても、キューバ危機に瀕した人類。それが引き起こす惨事を知っているはずなのに、依然増え続ける核保有国。
ゴジラの叫び声は、人に届かなかった。
だから、ゴジラは再び立ち上がった。攻撃されても、つきまとわれても、人なんかお構い無しでムートーへの憎悪一心で彼らの後を追う。かつて人に託した想いを自身の原動力として、核の「驚異」と「負債」を自らの手で滅ぼす。
ゴジラは人の良心に期待することを止めてしまったのだ。

ゴジラが初めて「見た」人間

二体のムートーと戦うゴジラはその最中、一人の男の姿を捉えた。
フォード・ブロディ。彼はムートーの巣にあった卵を焼却し、仲間が巣から運び出した核ミサイルを人にもムートーにも届かぬ場所へ遠ざける。

『人間が傲慢なのは、自然は人間の支配下にあり、その逆ではないと考えている点だ』

人の傲慢に両親を殺されたフォードは、妻子を護るためムートーに立ち向かった。
後世に脅威も負債も残さない。そのために今から変わろう。ここから変わろう。今度こそ変わろう。フォードの姿は製作側の主張にも思える。
で、ゴジラはその姿を見て何を思ったのか。
もう一度、人に期待を寄せてくれただろうか。
何を今更と一蹴されてしまったのだろうか。

『怪獣王は救世主か』

多分、その答えは今に無く、これからのぼくたちの選択によって決まるんじゃないか。

てな具合に、好き勝手解釈する余地が多分にある。

初代ゴジラはこうだ。だから、今回のゴジラはこうなった。と結論付けずにあえて残されたその余地こそ、今作の本質だと思う。そういう意味では確かに稀薄なのかも知れない。
だけど、今作は初代に対する回答じゃない。初代の訴えを反復するための作品でもない。答えを導き出すためのきっかけなんだ。本当の「一作目」を作ろうとした製作側にとっても、ゴジラの復活を期待したぼくたちにとってもそう。
あのときのゴジラは現代に何をもたらしたのか。
これからのゴジラはどうあるべきなのか。
現代に甦ったゴジラが語るのは過去のことじゃない。今、ぼくたちの隣にある驚異だ。
あのときとこれから。その過渡期にある作品として今作は、語るべきことを充分に語っていると思う。

と、長々と擁護してみたものの

不満がゼロじゃないというのも事実なわけで。
気になるのは、主にムートー。形状がクローバーフィールドのアレやスーパー8のソレみたいだったりするのはいいとして。問題はツルッツルの質感。凹凸の多いゴジラと比べると余計目立つんだけど、表面をツルッツルにした分、情報量が削がれて見た目がチープになっちゃっているのがよろしくない。何なら、背景であるはずのビルの方が目立っていたくらいだからなあ。
大型で、引いて撮ることが多い怪獣だからこそ、デティールは細かくて然るべきだと思う。重厚感を出すためにも。せめて、雨でも降らせて光沢を付けるとか関節を増やしてみるとかすれば、また印象も違ったんだろうけど。ゴジラの外見と挙動がよかっただけに、残念。
放射熱線を撃てるゴジラに対して跳びかかりと袋叩きが主戦法というのも、ちょっと演出が弱い気が。パルスも放射線吸収スキルもゴジラ相手には無価値で、弱いものイジメをするための武器に成り下がっちゃってるから、せめて一つ、ゴジラにとって驚異的な何かが欲しかった気がする。放射熱線引き撃ちでノーダメ撃破余裕ですわって戦法が最善手という状況は流石にどうかと。体力を消耗するから乱発できないっていう設定があるらしいけど、作中で結構撃ってるし、疲労していても最後まで出力落ちなかったし。

予断。

テーマの妥当性を脇に置いて絵面だけを見ても、この映画はゴジラ愛に溢れた映画だ。演出や怪獣の挙動に至るまで、原作に敬意を払っているシーンが多い。特に、序盤に出てくる日本の留置所のシーンは必見。セットもそうだし、端役の人たちの風貌に加えて台詞までもが「ある意味」での日本を忠実に再現してる。アメリカナイズされたジャパンから、唐突にぼくたちの日本が現れるあの瞬間は笑っちゃうこと間違いなし!